東京⼤学未来ビジョン研究センター(旧・東京⼤学政策ビジョン研究センター)、慶應義塾大学メディカルAIセンター、エムスリー株式会社m3.com編集部が2019年1月から開催している「医療×AIセミナーシリーズ」のイベントレポートです。
東京大学未来ビジョン研究センター、慶應義塾大学AIメディカルセンター、エムスリー株式会社m3.com編集部は在日フランス大使館科学技術部と2019年9月27日に医療×AIセミナーシリーズ第9回「AI時代の医療とトラスト:日仏哲学対話」を開催した。日仏の医療制度の現状と課題、特に医療での個人情報の活用と規制について、両国の専門家が対話した。
2番目に講演したのはフランス国立情報学自動制御研究所(INRIA)のクロード・キシュネール氏で、フランス国家倫理諮問委員会(CCNE)がテーマを設定して倫理的な課題を議論するワーキンググループにデジタル技術の専門家として参加した経験をもとに、特にデジタル技術と医療の関係についての自身の意見を紹介した。デジタル技術の進展と医療分野でのさらなる活用はもはや止めようがなく、その前提を踏まえた上で個人情報とも関連が強いデータの扱い方についてどう議論していくべきか、誰もが必要な医療に平等にアクセスできる環境をどう整備していくべきかなど、ワーキンググループでの議論を通じて特に重要と感じた課題を指摘した。
デジタル技術の進展には驚くべきものがあり、世界はどんどん変化しているとキシュネール氏は切り出した。こうした変化はほんの数年前までは想像もできなかったイノベーションをもたらすが、新しい課題も生じる。そうした中で、キシュネール氏は「情報」の重要性について改めて強調した。特に、20世紀半ばまで物質や生命、エネルギーなどについての研究が進められた一方で、それらを含むあらゆるものに関わる情報そのものの研究が手薄だったと指摘した。フランスの哲学者の故・ミシェル・セールが言語や線画の登場、文字の発明、印刷技術の発展、デジタル技術がもたらす革命というような情報の形の変遷を人類の進化に関連付けたことに触れ、いかに今日のデジタル化が新たな革命につながるものであるかを提示した。
このようにデジタル化が急速に進んでいる現在の状況は今までとは異なる変化の真っ只中にあることになるが、なぜデジタル革命が大きな変化をもたらすのだろうか。キシュネール氏は、人間自体が情報処理のシステムだから、との見方を示した。DNAや細胞、臓器、身体などは情報処理システムで、こうした生物的なシステムとデジタルのシステムは互いに補完するもので、互いに影響もし合うという。そのため、急速なデジタル化で医療や生命科学のあらゆる分野で倫理的な課題に直面しており、フランスのCCNEも世論の動向を知って現状を分析し、CCNEの意見の取りまとめに向けてワーキンググループを設置し、キシュネール氏も参加した。
例えば医療の分野では機械学習や遠隔医療、手術室のデジタル化など、デジタル技術によってあらゆる領域で変化が起きている。医学教育も、さらにデジタル化が進む将来に技術を活用できる人材の育成が必要になるため変わってきているという。こうした点も把握し、ワーキンググループでは改めて医療の領域へのデジタル技術の浸透が高速で起きていること、後戻りできない事態であることを認識したとキシュネール氏は話した。デジタル技術は医療の質向上や効率改善の柱になるという可能性がある一方で、まだ可能性の実現に向けて動き始めたばかりの段階で、技術の今後の発展に関連して出てくる倫理的な問題も引き続き捉えていく必要があるとした。
すでに実際にデータに関連する倫理的な課題として、希少疾患の患者のデータを研究目的に活用するか、という例を挙げた。患者のデータを集めると、家族や周囲の環境など、どうしても特定の個人に関する情報が含まれるようになってしまう。また、患者からインフォームド・コンセントを得られれば十分なのかも考えなければならない。大量のデータのやり取りのためにGmailやDropboxを使う医師もいるが、個人データの秘匿性が担保されない可能性を指摘する意見もある。自動車の排ガス制御ソフトを開発しているエンジニアであれば、排ガス処理のプロセスに手を加えれば倫理的な問題が生じるが、倫理的に問題があると分かっていても会社の指示があった場合、エンジニアはどう対応すべきなのか。倫理的な問題は、様々な形で生じる。
一方で、デジタル技術を十分に活用しないことで倫理的に問題が起きることもあるという。デジタル技術によって医療へのアクセスが改善され、医療の質の格差を小さくしたり透明性を確保したり、患者の選択の自由の余地が広がる方向にデジタル技術は作用する一方で、年齢や文化的背景、健康状態の影響で患者がデジタル弱者になってしまった場合、逆に医療を受ける選択肢が狭められしまい、受けられる医療の質が下がってしまう事態も想定され、医療全体の仕組みを土台から揺るがしかねない。キシュネール氏が参加したワーキンググループでは、誰もが使える形でデジタル技術を医療の分野に浸透させることを優先事項としながらも、医療でデジタル技術を使う場合には人間の関与を保証すること、例えば人工知能などが関わってくるようになった場合にはアルゴリズムの診断よりも人間の判断を上位に置くことも必要だと強調しているという。
鴻知佳子 ライター
大学で人類学、大学院で脳科学を学んだ後、新聞社に就職。バイオを中心とする科学技術の関連分野を主に取材する。約10年の勤務後に退社。ずっと興味があった現代アートについて留学して学び、現在はアートと科学技術の両方を堪能する方法を模索中。