東京⼤学未来ビジョン研究センター(旧・東京⼤学政策ビジョン研究センター)、慶應義塾大学メディカルAIセンター、エムスリー株式会社m3.com編集部が2019年1月から開催している「医療×AIセミナーシリーズ」のイベントレポートです。
東京大学政策ビジョン研究センター、慶應義塾大学AIメディカルセンター、エムスリー株式会社m3.com編集部が2019年2月3日に開催した医療×AIセミナーシリーズ第3回「内科とAI」に、アイリス株式会社代表取締役で救急専門の沖山翔氏が登壇し、「診察技術のGitHub化構想、医師のクオリアを共有共創する時代へ」と題して、医療AIの概要や、社会実装における課題について紹介した。
GitHubとはソフトウェアのソースコードをネット上で管理するサービスの一つだ。ソースコードのバージョン管理や共有などの機能があり、ソフトウェア開発者たちにとっては、みんなでソースコードを発展させていく仕組みとしてなくてはならいものになっている。GitHubのような仕組みは、診察技術・診療技術にも役立てるのではないかと沖山氏は考えている。
沖山翔氏は医師になって9年目。専門は救急医療だ。2017年11月に、咽頭画像を用いてインフルエンザの診断支援医療機器の開発を行うアイリス(Aillis)株式会社を創業した。インフルエンザに罹患した患者に特異的に現れる特徴として、インフルエンザ濾胞がある。インフルエンザ濾胞とは、インフルエンザ患者の、のどにできる腫れ物だ。アイリスでは、喉の奥を撮影した画像を用いて診断することで、その場でインフルエンザが陰性か陽性か、判定するためのソフトウェアとハードウェアを開発している。社員数は約20人。沖山氏は週末は臨床の現場に立ち、平日はアイリスで仕事をしているという。
沖山氏は講演の最初に、Facebookのザッカーバーグによる「21世紀の終わりまでに全ての病気を治療し、予防し、あらゆる病気に対応できるようにしたい」という言葉を紹介した。ザッカーバーグは言葉だけではなく実際に行動もしており、3000億円を出資して医療分野の基礎研究などを行う拠点「Chan Zuckerberg Biohub」設立などを行なっている。またシンギュラリティの概念を提唱したことで著名になった科学者・発明家のレイ・カーツワイルは「2030年、あるいは遅くとも2030年代の終わりまでには、人類は全ての病気を乗り越えられるだろう」と言っている。沖山氏は、今はこれまではSFのように思われていたことがテクノロジーの力で現実化している、特殊な時代になっていると思っているという。
日本人の寿命は0.3年ずつ毎年伸びている。また世界人口は、今年生まれた赤ん坊が小学生になることには85億人に達する。人類の数が2倍になれば経済も社会構造も技術も変わる。「昔はこうだったから、今からもこうだ」という常識は、当てはまらなくなっている。その中で医師の仕事はどう変わるのか?「AIは単なるツールであり、今の医療の文脈を壊さずにどうやって取り込んでいくかが重要ではないか」と沖山氏は語った。
AIについては、ビッグデータ、コンピューティングパワーの進化、そしてキャッチーな事例の3つが今のブームの火つけ役となっている。ディープラーニングによる画像判定精度の大幅な向上はブームを牽引した。ディープラーニングのブレイクスルーは、言語化が難しい抽象的な概念のソフトウェアによる取り扱い・演算を可能にしたことだと沖山氏は捉えているという。たとえば富士山の写真にゴッホの画風を足すような作業も可能になった。レンブラントの絵画の特徴量の抽出による、レンブラントらしい絵画を生成させた「The Next Rembrand」プロジェクトは有名だ。また、動画生成も可能になっている。学習材料が十分にあれば、人が喋る様子も生成できる。
AIが得意なことは、認識、予測、最適化だ。ディープラーニングの父とも言われるヒントン教授は、医療AIについて「放射線科医の能力をAIが上回る日は近い」と述べており、メイヨークリニックの放射線科医であるブラッドリー・エリクソン氏は「CT、MRI、エコーの読影レポートの多くは近いうちにAIが作成できるようになる」と、2016年に述べている。
以前は、AIは症例数が多い病気だけにしか適用できないのではないかと考えられていたが、昨今は事情も変わりはじめた。AIには、ラベル付けされた大量の正解データから学ぶ「教師あり学習」と、トライアンドエラーで行動を最適化する「強化学習」に大別できる。沖山氏は、日立製作所による、ロボットがブランコをこげるようになるように強化学習させた実験例を示し、ロボットが、人が発見していない漕ぎ方を発見したところが面白いと述べた。
強化学習は時間がかかり、まどろこっしい。だが最近はそうでもなくなりつつある。沖山氏はOpenAIによるロボットハンドにキューブを操らせた実験例を紹介した。シミュレータを使って、様々な変数を少しずつ変えて大量の学習を行わせることで、実機のロボットハンドでも、ロバストな操り方が獲得できるようになったというものだ。
沖山氏はこれらAIの概況を紹介したあと、「現行のインフルエンザの検査には限界がある」と指摘した。発症後、数時間経たないと、現在の検査キットの精度は出ない。そして症状が出たあとにも精度は6割程度しかない。つまりインフルエンザの早期診断は難しい。一方、タミフルの効果は発症から48時間以内だ。ここには大きな課題がある。
医師の宮本昭彦氏、渡辺重行氏らは、2013年に口腔内の咽頭後壁のインフルエンザ濾胞を見出だすことでインフルエンザを98%の精度で診断できるという論文を出している。このインフルエンザ濾胞にはベテランの医師しか区別することができない特徴があり、それを見ればわかるのだという。沖山氏はこの論文を見たときに衝撃を受けた。そこでベテランの知見をデバイスでなんとか再現できないかと考え、画像に臨床情報を組み合わせて推論させる形で現在、アイリスで開発を行っている。
ハードウェアとしては、専用に開発した医療用の内視鏡カメラを用いて患者の喉を撮影する。いまは複数の病院で画像データを収集中で、AIの学習を進めているという。臨床試験(治験)を経て、2020年を目標に医療機器承認を受け、上市する予定だ。
インフルエンザ診断支援デバイスはアイリスのファーストプロダクトだが、それだけではない。アイリスが見据えているのは、ベテラン医師が持つ暗黙知や身体知を共有するプラットフォームの構築だ。30年、40年の経験がないと獲得できない暗黙知を、技術の力で広く共有できるようにすることを目指している。
沖山氏は、世の中の知識体系には、累積して発展していく「ストック」と、次世代への引き継ぎが難しい「サイクル」の2種類があるのではないかと述べた。たとえば、現代の我々は数学の天才だったピタゴラスよりも多くの数学ストックを持っている。だが運動能力は必ずしも後世に引き継がれるわけではない。こういった2種類の知識や技術を医学にあてはめると、いまの研修医は昭和の名医よりも多くの医学情報は持っているが、匠の技は持っていない。インフルエンザ濾胞の診断能力は後者の「サイクル」に属している。このような事例をなんとかしたいと沖山氏らは考えている。
暗黙知に属する技術を、いかにストック化して共有していくか。ここにAIが活用できると考えていると述べて、人類が情報をストックできる文字によって言わば「人類2.0」になったとすれば、視診・聴診や触診のような診察技術や匠の技をニューラルネットワークによって「ストック」にして記録と更新ができるようにして、情報共有だけではなく「技の共有」ができるようにすることで「人類3.0」のような世界観が実現されつつある時代だと述べた。
このような流れは音楽、絵画、囲碁や小説などの世界では既に起き始めている。医療でも同じことはできるはずだ。沖山氏は「数十年かけて得たものは、そのあいだの努力に価値があるわけではないと思う。努力の結果としてたどり着けたものに価値がある。一足飛びにそこにいけるのであれば行くべきだし、それで救われる命があるのなら尚更だ」と述べ、ニューラルネットワークによる身体知や暗黙知、技の共有の重要性を強調した。
アイリスでは身体診察や匠の技をニューラルネットワーク技術を使って医療機器というかたちにして共有できるようにする。さらに将来的には「診察のなかに皆が納得する形でAI技術を取り入れていくことで、医学技術の格差をなくしたい」と締めくくった。
森山和道 サイエンスライター
サイエンスライター、科学書の書評屋。1970年生。広島大学理学部地質学科卒。NHKディレクターを経て現職。現在、科学技術分野全般を対象に取材執筆を行う。特に脳科学、ロボティクス、インターフェースデザイン分野。研究者インタビューを得意とする。