ツカザキ病院眼科創業者主任部長であり、広島大学大学院医系科学研究科 医療のためのテクノロジーとデザインシンキング寄附講座で教授を務める田淵仁志氏が、AI開発に必要なマネジメントのエッセンスについて語る連載コラムです。
今回で10回目、最終回になります。第1回はチーミング、第2回はフィードバックループ、第3回はサイコロジカルセーフティー(心理的安全)、第4回はデザインシンキング、第5回はバイアスつまり行動経済学、第6回は「外部環境をMECEに考えるMBA的フレームワーク思考」、そして第7回はイノベーションのジレンマ、第8回はフレーム問題、第9回は危機管理について述べてきました。どの項目も経営学の基本をなす重要な叡智(ナレッジ)です。ぜひ何度も読み返して役立ててもらえればと思います。今回はCSV(共通価値の創造)で最終回として締めくくりたいと思います。
マネジメントの世界で重要な単語の一つに「理念」があります。損益分岐点や固定費などの言葉とともによく登場します。要するに、勤務医が開業しようと思い立ったとき、最初に出会う経営学の頻出用語です。「組織の理念を作って、それをスタッフに浸透させて運営を回す」というイメージでしょうか。
もちろん私にとっても理念は重要です。『ビジョナリー・カンパニー』という有名な経営本のシリーズがあります。その第1巻で、ソニーは代表企業として評価されていて、日本人として誇りに思った記憶があります。
この本のざっくりとした概要は「ビジョンがすべてを包括していく」ということです。経営学では「パーパス(目的)」という言葉もよく登場しますが、これはどのような事業であれ、何の目的があるのかをメンバー全員が理解し、納得していなければならないということです。さて、私にとっての理念やパーパス、ビジョンとは何か。それは国民皆保険制度の維持発展です。この制度の本質を私は「薄利多売」ととらえ、その維持のためにAI開発を行い、うまくいけば外貨獲得の武器にならないかと、発展的にポジティブシンキングしているわけです。
さてそんな中で、この最終回に「Creating Shared Value(「共通価値の創造」と訳されることが多い。略称はCSV)」 という、これまた似たような経営学用語を紹介したいと思います。ビジョン、パーパスが部分最適の範疇であるのに対して、CSVは完全に全体最適を念頭においた用語です。
開業医院を運営するときに、若いドクターの教育やこれまで続けてきた研究の継続を考えるドクターはほとんどいないと思います。しかし、その時点で全体最適の視点を失っていると私個人は考えます。医療全体のバリューチェーンで研究、教育というコストセンターを担わない組織は部分最適でしかないというのが私見です。大きな眼科チームを一人で立ち上げ、育ててきた私にはよく「なぜ自分でやらないのか(なぜ中間ポジションにいるのか)」というコメントをしてくれる人がいるのですが、私がオーナーであれば、それは部分最適になってしまうのです。
昨今の大学組織には、リーダーシップを失いがちな合議制の問題を打破する方法として、理事長システムがことさらによいものとされる風潮があると聞いています。しかし、それはあくまで淡い期待であり、根拠は弱いと思います。イエスマン体制であればリーダーシップも何も意味がないのです。合議制がゼロアイデアだとしても、ワンマン体制のアイデアはわずか1です。アイデアの数はゼロと1で、それだったら何もやらない方が安全かもしれません。また、医療組織や大学組織は市場評価という大切な外部フィードバックがほとんど機能しません。つまり、トップの判断が間違いだった場合にやめるという方法が存在しないという大問題を抱えています。
私が中間管理職でいるのは、上位からのキツイ指摘をわざと必要としているからです。私自身の力が強い方がいいのか弱い方がいいのか、そんなことよりもアイデアの数が多い状態を維持するほうが優先順位が高いと考えています。だから私は外部評価が相対的には利きやすい民間病院で、しかも意図して中間ポジションにいるのです。
部分最適と全体最適を同時に図るにはどうすればよいのか。それを考えることがCSVです。ファストファッションと呼ばれる、低価格のファッションブランドが世の中を席巻していますが、私達が驚くほどの安い値段でベーシックな洋服を着られるのは、劣悪な環境で働くバングラデシュの人々の存在があることがすでに明らかになっています。CSVはそうしたグローバリズムと資本家サイドの都合の悪い情報開示の時代にようやく出てきた新しいビジョン、パーパス、理念なのです。誰かの犠牲で誰かの幸せがあってはいけない。口にするのも難しいセンシティブなアイデアなのです。
CSVを実現するのは簡単なことではありません。過激派のように声高に叫ぶ必要はなくても、私たち全てに関係することですから沈思黙考すべきです。浅はかな考えでは全ての人にとっての共通価値は見つからないでしょう。私にとっても日本の国民皆保険制度の維持発展が自分の中での精一杯のフレーミングであり、他の国の医療制度まで考える余裕は全くありません。過去のしがらみを無視するかのようにゼロベースという最終手段を使って全力で取り組んでいる私にとっても、全体最適というのは最難関の知的ゲームです。
私たち医師はエリートの端くれです。そしてこのコーナーを読むような新しい志の人達は特に日本の未来を担うべき責任ある人達です。CSVとは今学ぶべき最も大切なメタ知識だと私は考えます。小さな一歩の積み重ねが人生ですが、その一歩がどこに向かうのかで長い人生の到着地を大きく変えるわけです。優秀な人であればあるほど部分最適は簡単な目標です。誰もが出来ることを「出来た!」と言ってしまう人生には魅力を感じないハズです。個人的到達点をイメージするのではなく、社会にとっての到達点をイメージしてください。あまりにも広大な未来になりますが、あなたが積み重ねた歩みがあなたを途方もない場所にまで連れて行ってくれるので大丈夫です。
「人工知能開発が一体何のためなのか、あなたが考えるCSVに照らし合わせて考えてみよう」。それがAIマネジメントの最初の一歩になると思います。
全10回のご拝読、誠にありがとうございました。このコラムについて「m3com-editors@m3.com」までぜひ感想を下さい。テーマについてのあなたの感想に基づく知的な対話を心から希望しております。今後とも私達のAIチームの活動へのご注目よろしくお願いします。
田淵仁志 ツカザキ病院眼科主任部長兼広島大学寄附講座教授
大阪市立大医学部卒後、研修しながら大学院で大脳視覚生理領域に取り組み、眼科学助手就任。その後、波乱の人生に足を踏み入れる。姫路市の民間病院の眼科に着任し、自作の医療用DWHを基盤とした医療の集約化を図り、15年かけて日本最大級の眼科ユニットに育て上げる。その傍ら名古屋商科大経営学大学院で修士(経営学)とEMBAを取得。並行して進めていたDWH機械学習研究がDeep Learningにより一挙に実用水準に到達したことを契機にAIチームを創設。2019年4月、広島大学に寄附講座「医療のためのテクノロジーとデザインシンキング」を開設。ツカザキ病院眼科主任部長兼広島大学寄附講座教授として、眼科臨床、AI社会実装、医学生研修医教育の三足のわらじを履いている。