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100年超の歴史を持つ病理現場が激変する―榎木英介が見据える病理現場の未来(1)

2020年8月5日(水)

病理画像解析はAIが得意とする分野だ。Googleをはじめ、多くの企業が病理診断AIの開発を目下進めている。今後、病理学の世界はどのように変わっていくのだろうか。病理専門医、細胞診専門医である榎木英介氏が病理現場の未来を語る。

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顕微鏡が目の前にある。100年以上前には基本的技術が確立した古典的な機械。光学レンズの質は年々確実に高まっているが、自らの眼を接眼レンズに接近させ、網膜にフォーカスを合わせる作業は何ら変わることはない。

顕微鏡の対物レンズがガラス板に近づく。ガラスの上には、患者さんの体から採取された組織の一部が、数マイクロメートルという薄さで切り取られ、貼り付けられている。赤色と青色で着色されている組織。ヘマトキシリンとエオジンという色素が使われている。これも100年は優に超える歴史がある手法だ。

私は組織に目を凝らす。まずは低い倍率で全体を見る。気になるところは倍率を上げる。この作業は人工衛星から地上を見ることに似ている。地形の全体像を把握した上で、知りたい地点を拡大撮影する。まさに私はこれと同じことをしているわけだ。

網膜から入った光は後頭葉に達し、そこから神経の刺激が脳を駆け巡る。病理医として過ごした15年の記憶が瞬時に検索される。

組織の構築、細胞一つ一つの形、色。一つとして同じものはない。けれど、15年の経験から、組織構築パターンの乱れ、正常細胞からの逸脱が知覚できる。それに臨床データを加味し、この組織に何が起きているのかを推測する。

私は脳が把握した病変の状況を言語化する。目で見たもの全てを言語に置き換えることはできない。大胆に情報をそぎ落とし、エッセンスのみを伝える。しかし、情報をそぎ落とし過ぎると、臨床サイドに誤解を与えることにもなる。言葉は慎重に選ぶ。

ときに読み手がこの言葉をどのように理解するか、といったことも考える。この医師はやや飛躍した解釈をする傾向があるから、控えめな表現をしようとか、この医師はかなり慎重なので、過小評価されないような表現にしようといった風に。

私が組織から得た情報は、言葉となり、臨床医に伝わり、患者さんやご家族に伝わる。伝言ゲームにならないように、誤解のないように、慎重に。


私は病理医だ。病理専門医と細胞診専門医の資格を持ち、日々病理診断をしている。

大学病院や市中病院を経て、この4月からは複数の医療機関に非常勤で勤務するフリーランス病理医となった。フリーランスの医師といえば麻酔科医が思い浮かぶかもしれない。実際、フリーランス病理医はまだまだ少数派だ。なぜフリーランスになったのかは、おいおいお話しすることにしよう。

新型コロナウイルスの蔓延という、時期としては非常に厳しいときにフリーランスになったが、幸いにも病理診断がなくなることはなかった。確かに一つの医療機関あたりの標本数は、不要不急の外出の自粛の影響を受けたのか、確実に減少していた。しかし、逆に言えば、常勤医一人雇うほどの標本数がない病院が増えたということでもあるので、非常勤には有利に働いたともいえる。

もちろん、三人の非常勤で回していた病院が一人雇い止めした、というケースはあり、簡単ではないのだが。

さて、このような病理医としては異端である私が、なぜこのような場所で原稿を書かせていただく機会を得たのか。

それは、病理医の中で最も末端に位置する私のような存在が、人工知能(AI)の出現によって最も劇的に影響を受けるからだ。大学の所属であれば研究や教育で、病院の常勤医であれば管理業務などで自らの有用性を示すことによって生き残りを図ることができるかもしれない。

しかし、フリーランスにはそれがない。安くて正確な診断ができるデバイスが登場すれば、病院は容易に非常勤医を切り捨てるだろう。逆に言えば、最末端の現場だからこそ見えることがあり、ある種そのためにフリーランスになったと言っても過言ではない。

現在目覚しい勢いで、AIが病理診断に有効であるという論文が発表されている。まだ日常の診断業務に入り込む段階ではないが、「その日」は遠くないだろう。


冒頭に書いた私の日常は激変するはずだ。

まず、顕微鏡は要らなくなる。標本はデジタルデータになる。しばらくは顕微鏡で撮影したデータを扱うことになるだろうが、いずれ光学レンズ以外の方法も出現するだろう。

ヘマトキシリンやエオジンも不要になるだろう。薄く切った標本そのものを直接データ化することは、既にできるようになりつつある。

組織を薄く切ることすら不要になるかもしれない。組織を丸ごとスキャンするなどして、3次元データが作れるようになるかもしれない。

そして、病理診断そのものはAIが行うようになる。最初は診断のみだろうが、そのうち病理診断の報告書も自動作成できるようになる。

果たしてそのような時代は来るのか……。来るとしたらいつか……。その時病理医は存在しているのか……。

本連載では、最末端の病理医の視点で、病理診断におけるAI導入の現状と課題を考えてみたい。

その先に見えるものは希望か、それとも……。

榎木英介

榎木英介 病理専門医、細胞診専門医、一般社団法人科学・政策と社会研究室代表理事

1971年横浜市生まれ。東京大学理学部卒。同大学院中退後神戸大学医学部に学士編入学。2004年医師免許取得。以後病理医として働く傍ら、科学技術が社会にどのような影響を与えるのかを考える活動を続けている。2018年に一般社団法人科学・政策と社会研究室を設立し代表理事に就任。2020年からはフリーランス病理医になり、独立した立場で科学技術や医療のあり方を見つめている。AIに関しては、医療現場にどのような影響を与えるかという社会的観点で情報を注視している。著書「博士漂流時代(ディスカヴァー・トゥエンティワン)」にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。Yahoo!ニュース個人などにも記事執筆している。