ビデオカメラで撮影した映像を電気信号として脳に直接送り込み、視覚障害者の視力を回復させる——。スペインの研究者が数十年取り組んできた研究がついに実を結びつつある。
ベルナルデータ・ゴメスは、目の前の、手が届く距離にある白い厚紙に書かれた太く黒い線を指して「アリ(Alli)」と言った。母国語であるスペイン語で、「そこ」という意味だ。
57歳の普通の女性にとっては特別な能力ではない。だが、ゴメスは目が見えない。これまで十数年も視力を失った状態だった。42歳のとき、ゴメスは中毒性視神経症によって眼と脳をつなぐ神経束が破壊され、視力を完全に失った。光を感じることすらできない。
しかし、16年間の闇の後、6カ月間だけ、白と黄色のドットと色々な形状によって、自分の周囲の世界の雰囲気を非常に低い解像度で見ることができた。黒く塗りつぶされ、小さなカメラが取り付けられた改造眼鏡のおかげだ。この眼鏡はコンピューターに接続されており、カメラのライブ映像は電子信号に変換される。コンピューターはさらに、天井から吊るされたケーブルでゴメスの頭蓋骨後部に埋め込まれたポートにつなげられている。このポートは彼女の脳後部の視覚皮質に埋め込まれた、100本の電極を持つインプラントに配線されているのだ。
ゴメスはこの装置を使うことで、天井の照明や、紙に印刷された文字や基本的な図形、人々を認識できた。画像信号を脳に直接送ることで、簡単なパックマン風のテレビゲームをすることすらできた。ゴメスは、実験期間中は週に4日、目の見える夫に研究室まで連れてきてもらい、コンピューターシステムと接続した。
2018年末にゴメスが視力を得た瞬間、スペインのエルチェにあるミゲル・エルナンデス大学の神経工学部長、エドゥアルド・フェルナンデス教授の数十年にわたる研究がついに実を結んだ。フェルナンデス教授の目標は、視力を取り戻したいと願う全世界の3600万人のできるだけ多くに、視力を回復してもらうことだ。フェルナンデス教授の方法が際立って面白いのは、目と視神経を飛び越えてしまっている点である。
かつての研究では、研究者は人工眼球と人工網膜を作ることで視力を回復させようとしていた。この方法はうまくいったが、目の見えない人の圧倒的多数はゴメスのように網膜と脳の後部をつなぐ神経系が損傷されている。つまり人工眼球では視力障害を解決できない。だからこそ、網膜色素変性症という希少疾患の治療のために2011年に欧州で(そして2013年に米国で)人工網膜を販売する認可を得たセカンド・サイト(Second Sight)が、2015年になって20年も続けた網膜の研究を止めて視覚皮質の研究に乗り換えたのだ(セカンド・サイトによると、同社の「アーガスII(Argus II)」網膜インプラントを使用しているのは350人強だという)。
ヤシの木の散在するスペイン・エルチェにフェルナンデス教授を訪ねてみると、教授はインプラント技術の進歩と、人の視覚系の理解が進んだことで、脳に直接向かう自信ができたと語った。「視神経系内部の情報は、電子機器の内部の情報と同じです」。
信号を脳に直接送って視力を回復しようというのは野心的な考えだ。だがその基礎となっている原理は、すでに医療の主流として人間への電子インプラントに何十年も使われてきた。「現在、人間の体とやり取りして動作する電子デバイスがたくさんあります。その1つが心臓ペースメーカーです。知覚系では人工内耳があります」。フェルナンデス教授は説明する。
後者のデバイスはフェルナンデス教授がゴメスのために作った補綴具の聴覚バージョンだ。外部マイクと信号処理システムが内耳にあるインプラントにデジタル信号を送る。インプラントの電極が電流のパルスを近隣の神経に送ると、脳はそれを音として認識する。人工内耳は1961年に初めて患者に埋め込まれた。現在では人工内耳のおかげで世界中で50万人以上の人たちが毎日の生活の中で普通に会話している。
「ベルナルデータは最初の患者でしたが、今後数年の間に、さらに5人にインプラントを移植していきます」。フェルナンデス教授はゴメスをファーストネームで呼んでそう言った。「動物を使って同様の実験をしてきましたが、ネコもサルも自分に何が見えているのかを説明できませんから」。
ベルナルデータにはそれができた。
ベルナルデータの実験には勇気が必要だった。視力以外は健康な肉体に、どうしても危険が伴う脳外科手術をしなければインプラントを埋め込めないからだ。さらに、この装置は長期使用の認可が取れていないので、6カ月後には取り出す必要があった。
ゴメスに会った。彼女の声は実際の年齢より10歳ほど若く聞こえる。言葉使いは慎重で、語調は完全にスムーズ、口調は暖かく、自信があり、安定している。
フェルナンデス教授の研究室で最後に会ったときには、ゴメスは部屋のレイアウトをよく覚えており、狭い廊下と、そこからつながる部屋まで歩いていくときもほとんど補助を必要としなかった。私が挨拶をしようと近づいたときには、私が「こんにちは」と言うまでよその方向を向いていた。握手しようと手を伸ばすと、ゴメスの夫が彼女の手を私の手の方に導いてくれた。
ゴメスが研究所に来ていたのは、インプラントを取り出して6カ月が経ち、脳のMRIを取って経過を見るためだった(結果は良好だった)。しかし、別の目的もあった。第2の被験者になる可能性のある、市内に住む人に会うためだ(しかもちょうど私の滞在中に)。フェルナンデス教授が装置をどのように頭蓋骨に接続するのか説明している時、ゴメスは話を中断して前かがみになり、自分の後頭部の金属ポートがあった場所に被験者候補の人の手を置いた。今はポートの跡はほとんど何も残っていない。ゴメスが言うには、インプラント手術はまったく普通のもので、翌日には研究室に来てポートを装置に接続し、実験を開始した。手術以来、何の問題も痛みも起こっていない。
ゴメスは運が良かった。彼女のインプラントが成功するまでの実験の長い歴史は波瀾に富んでいた。1929年にドイツの神経科医オトフリート・フェースターは、手術中に脳の視覚皮質に電極を差し込むと患者の視野に白い点が出現することを発見した。フェースター医師はこの現象を眼内閃光と名付けた。これ以来、研究者やSF作家は「カメラ→コンピュータ→脳」という人工視覚装置の可能性について想像するようになった。一部の研究者は初歩的な装置を構築すらした。
2000年代初期には、ウィリアム・ドーベルという常軌を逸した生物医学研究者が試験患者の頭部にそのような視力回復装置を設置したことで、この仮説が現実となった。
2002年に作家のスティーブン・コトラーは、ドーベルが患者に電気を流すと患者が床に倒れ、発作を起こして苦悶するのを見たことを恐れと共に思い出して書き綴った。理由は電流の流し過ぎによる刺激過多だった。後で分かったが、脳が耐えられなかったのだ。ドーベルの患者たちには、感染症の問題も起きた。それでもドーベルは自分の大きな装置がほぼ日常使用できるものだと宣伝し、販売促進ビデオでは入口を閉鎖した駐車場の内部で盲目の男性が車をふらつかせながらゆっくりと運転する映像まで付けていた。ドーベルが2004年に亡くなると、彼の視力回復装置も忘れ去られた。
目の見えない人たちのための治療だと公言していたドーベルとは異なり、フェルナンデス教授はほとんどいつも、「期待を持たせたくありません」とか「目の見えない人たちが使える装置を作りたいのですが、今のところ初期実験の実施中です」といったことを口にする。
しかしゴメスには実際に物が見えていたのだ。
ゴメスの視力の背後にある基本的な考えは単純で、カメラをビデオ・ケーブルで脳につなぐだけだが、その細部は全く単純ではない。フェルナンデス教授らのチームは、最初にカメラの部分を解決しなければならなかった。ヒトの網膜はどんな信号を出しているのだろう? この質問に答えるため、フェルナンデス教授は亡くなって間もない人の網膜を手に入れ、それを電極に接続してから網膜に光を当て、電極からの信号を測定した(彼の研究室は地元の病院と緊密な協力関係があり、臓器の提供者であるドナーが亡くなると真夜中に彼に電話をくれることがある。ヒトの網膜は死後7時間程度しか生きた状態で保存できないのだ)。またフェルナンデス教授のチームは、機械学習を使って、単純な視覚入力を網膜の電気出力に変換するプロセスを自動的に疑似化するソフトウェアを作成した。
次のステップはその電気信号を脳に届けることだ。フェルナンデス教授がゴメスのために制作した視力回復装置は、「ユタ・アレイ(Utah array)」と呼ばれる一般的な神経インプラントにケーブルで接続されている。ユタ・アレイは単4電池の正極の盛り上がった先端部よりもわずかに小さい程度の大きさだ。先のとがった小さな電極が100本突き出ており、それぞれの高さは1ミリメートル。全体としてミニチュアの針のむしろのように見える。各電極は1つから4つのニューロンに電流を届ける。ユタ・アレイが挿入されると電極が脳の表面に刺さり、電極を抜くと、抜いた穴から100個の血液の小滴が現れる。
フェルナンデス教授はユタ・アレイの電極を1本ずつ較正し、そこに徐々に強い電流を流してゴメスがどの時点でどこに眼内閃光を感じるか調べなければならなかった。100本すべての電極の調整を終えるのに1カ月以上かかった。
「私たちのアプローチの有利な点は、脳に差し込まれたユタ・アレイの電極がニューロンの近くに留まることです」とフェルナンデス教授は説明する。そのため、ドーベルの装置よりもずっと少ない電流で視力を得ることができ、発作の危険性を劇的に減らせる。
このインプラントの大きな弱点は、 電極がインプラント自体にも患者の脳にも害をもたらさない状態でどれだけ長持ちするか誰にも分からないことだ。それは、ゴメスがユタ・アレイを6カ月以上装着し続けられなかった主な理由でもある。「体の免疫系が電極を破壊しようと電極の周囲を瘢痕組織で覆い始めますが、それによって最終的に信号が弱まります」とフェルナンデス教授は言う。患者があちこちに動くと電極が曲がるという問題もある。動物実験の結果と、ゴメスの使用したアレイの外観から判断して、現在の装置は2年から3年は持ち、恐らく動かなくなるまで最大10年持つだろうとフェルナンデス教授は考えている。さらにいくつかの小改良を加えることで装置の寿命を数十年まで延ばせるだろうとも期待している。これは侵襲性の脳外科手術が必要な医学機器には必須の条件だ。
最終的には、人工内耳のような補綴具は、その信号と出力が電極まで到達するためには、頭蓋骨を無線で通過させなければならない。現在のところ、フェルナンデス教授のチームの実験では装置をケーブルで接続しているが、これは設計が落ち着くまでハードウェアのアップデートを継続する柔軟性を得るためだ。
おそらくゴメスのインプラントが処理可能なほぼ最大の解像度である縦横10ピクセルで、文字やドアの枠や歩道などの基本的な形状が認識できる。しかし、人の全体はもちろん、顔の輪郭だけでもそれよりずっと複雑だ。フェルナンデス教授が画像認識ソフトウェアを搭載するよう装置に改良を施したのはそのことが理由だ。画像認識ソフトの搭載により、室内での人の識別が可能になっただけでなく、脳に描いた眼内閃光のパターンをゴメスが認識できるようになった。
フェルナンデス教授がよくプレゼンテーションに使うスライドの記述によれば、縦横25ピクセルの解像度があれば「視力獲得は可能だ」という。現在のユタ・アレーは非常に小型で必要な電力も非常に少ないので、脳の両側に4つから6つずつ設置して縦横60ピクセルまたはそれ以上の解像度を得ることは、フェルナンデス教授のチームにとって技術的に何の問題もない。それでも、このような装置からの入力信号を、人間の脳が苦痛なく、テレビ画面の白いちらつきのようなものもなく受け入れられるかどうかは誰にも分からない。
ゴメスは、もし可能であれば装置を埋め込んだままにしておきたかったと語り、装置の新バージョンが利用可能になれば真っ先に希望者の列に並ぶつもりだという。フェルナンデス教授がゴメスのユタ・アレイの分析を終えたら、額縁に入れて自分の今の壁に飾ろうとすら考えている。
フェルナンデス教授の研究室に戻った私は、患者の選別のために使っている非侵襲性の装置を試してみますか、と聞かれた。
ゴメスが去年の画期的な実験の期間中に座った革の椅子に座って待っていると、神経科医が2つの輪の付いた棒を持って私の頭の側部に当てた。「蝶々コイル」と呼ばれるこの装置は、強力な電磁波パルスで脳内のニューロンを刺激する箱に接続されている(この刺激方法は経頭蓋磁気刺激と呼ばれる)。1回目の刺激は、まるで誰かが私の頭皮を強く振動させているように感じた。私の手の指は無意識に丸まって手の平に入ってしまった。フェルナンデス教授は「ほら、うまくいきました」と言って面白がった。そして、「その指は、あなたの大脳の運動皮質が動かしているのです。次は眼内閃光を見せましょう」と言った。
神経科医は2つの輪の付いた棒の位置を変え、連続した速いパルスを出すように装置を設定した。神経科医がスイッチを入れると今度は、「ズップ、ズップ、ズップ」という強い振動を感じた。誰かが私の頭蓋骨後部を玄関のノッカー(叩き金)に使っているようだった。さらに、眼を大きく開いているにも関わらず、何かそこにないものが見える。 明るい水平の線が視野の中心に交わるように光り、テレビの白いちらつきのようなものが中に入った2つの三角形がちらちら光っている。見えたものはあっという間に消えてしまい、後に短い残光がある。
「それはほぼ、ゴメスが見たものと同じです」とフェルナンデス教授は言う。ゴメスの見える世界が安定しているのは信号が脳に送られている間だけだが、彼女はカメラ付きの眼鏡をかけた状態で首を回して部屋の中を見ることもできた。私が見たのは、電気的な刺激を受けた脳の内部の幻でしかないが、ゴメスは視力を失ってからの16年間で初めて、自分の見ている世界に実際に手を伸ばして触れることができたのだ。
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