心理学者は長い間、人間以外の身体も含む異なる身体に対する「所有」感の錯覚を研究してきた。VR(実質現実)技術を使って、身体所有感の限界を調べた最新の実験では、人間は場合によっては、人間型の身体よりも、人間型以外の身体に対して所有感の錯覚を起こしやすいことが分かった。
ディナーパーティーを盛り上げるイリュージョンの1つに、「ラバーハンド錯覚(詳細は後述)」がある。何も知らないゲストに、テーブルの上に置かれたゴム製の手が自分の手だと思い込ませるトリックだ。ゲストは急激かつ劇的に、真に迫った錯覚に陥る。イリュージョンを披露している人が撫でているゴム製の手が、ゲスト自身の手であるかのような「感覚が生じる」のだ。
このラバーハンド錯覚から、人間の脳を騙して、単なる物体を自分の身体の一部と感じさせるのは簡単だと分かる。心理学者は、手足だけでなく身体全体に対してこの錯覚を繰り返し実験してきた。被験者になれば、異性の身体や、ゴリラなどの人間以外の動物の身体まで、異なる形の身体を持ったような驚きの錯覚を体験できる。
研究者は長い間、全身の所有感の錯覚を引き起こすには、特別な管理条件の実験室でVR(バーチャル・リアリティ、実質現実)装置を用いる必要があると考えてきた。
しかし、最近になって、もっと簡単に身体所有感の錯覚を起こせる方法が発見された。そこからは、さまざまな興味深い疑問が提起される。研究者は、人間の脳がどの程度極端な形の身体まで受け入れることができるのかを知りたがっている。たとえば、クモやロブスターの身体、さらにはテーブルなどの物体を「自分の身体として感じる」ことができるのか? この錯覚を簡単に引き起こせるとすれば、どれほどの広範囲にこの種の錯覚を起こせるのか?
ドイツのデュースブルク=エッセン大学のアンドレイ・クレクホフらの研究チームが最近、この疑問の答えにつながる研究論文を発表した。同研究チームは、どのように人間が身体の所有感を錯覚するのか、人間の身体とトラやコウモリ、クモなどの人間以外の身体を対象にして比較研究した。
クレクホフらによると、人間は場合によっては、人間の身体よりも人間以外の身体に対して身体所有感の錯覚を起こしやすいという。この結果は、バーチャルな身体所有感を応用する道を切り開き、トレーニング分野や教育分野、そしてもちろん、大きな可能性が見込まれるビデオゲーム分野で重要な役割を果たすことを示している。
まず基本知識をいくつか紹介する。ラバーハンド錯覚ではまず、被験者の片手を隠し、その隣にゴム製の手を置く。被験者はゴム製の手を見ることはできるが、自分の手を見ることはできない。その後、隠された被験者の片手とゴム製の手の同じ場所を同じように軽く触ったり、撫でたりする。
被験者は、見えないところで自分の手が撫でられるのと同時に、目の前でゴム製の手が撫でられているのを見て、ゴム製の手を自分の手であるかのように感じる。この時、被験者にはゴム製の手を自分の身体の一部として感じる錯覚が生じているわけだ。この感覚に多くの人は驚き、感動する。
ラバーハンド錯覚が最初に紹介されたのは1990年代だが、以来、その研究は大きく進められてきた。ラバーハンド錯覚の次世代の実験では、初期のVRが使用された。VRゴーグルを装着した被験者が自分の身体を見下ろすと、たとえばゴリラの身体が見えたりする。
被験者がゴリラなどのバーチャルな身体を観察しているときに、バーチャルな身体の胸を軽く突く。同時に、被験者の胸の同じ場所も軽く突く。この時、被験者にはこのバーチャルな身体を自分の身体と感じる錯覚が生じる。
この実験手法の限界はすぐに明らかになった。この錯覚には視覚刺激と触覚刺激を同時に起こす必要がある。ゴム製の手の場合は簡単だが、身体全体となると途端に難しくなる。特に、バーチャルな手足の動きが被験者の本物の身体の動きを超える場合は困難だ。
そのため、身体所有感の錯覚の応用には限界があると思われていた。だが、2010年にブレイクスルーが起こった。視覚的なきっかけだけで身体所有感の錯覚を起こす方法が発見されたのだ。この方法では、被験者の手や指の動きに至る非常に詳細な身体の動きを観察し、その動きをバーチャルな身体で正確に再現する。
このブレイクスルーにより、身体所有感の錯覚を起こさせるのが簡単になった。そこで、クレクホフらの研究チームは幅広いモデルで身体所有感を研究し、3種類のバーチャルな身体に焦点を当てた。トラの形をした4本足の動物、コウモリの形をした空飛ぶ動物、そしてクモの形をしたまったく異なる外骨格を持つ生物である。
研究チームの目標は、姿勢、体形、そして全体の骨格さえも人体とは異なる身体モデルを使って、身体所有感の錯覚の限界を探究することだ。そして、そのような難しい条件において、人間の脳がどこまで身体所有感の錯覚に対処できるか、そして最も極端な条件で対処が可能か否かを突き止めることだ。
彼らが使った手法はシンプルだ。37人のボランティアを対象に身体所有感の錯覚の実験をして、被験者がどのように対処したかを測定し、その経験を人間の形の身体に対する所有感覚と比較して評価するように求めた。いずれの場合も、被験者の身体の動きをバーチャルな身体の動きに正確にマッピングすることで錯覚を引き起こした。
導き出された結果は興味深いものだった。クレクホフらによると、人間は異質な形を受け入れるのに驚くほど優れているという。「実験から、人間とはかなり異なる骨格を持つクモに対してさえも、人型アバターに対するのと同程度のバーチャルな身体所有感の錯覚が生じることがわかりました」。
さらに、特定の状況では、人型身体の所有感を超えた錯覚を引き起こす身体がある。たとえば、飛行感覚を再現するには人型身体よりもコウモリの身体の方が優れている。「私たちの実験結果では、バーチャルな身体の所有感覚は非人間型の身体に対しても適用可能であり、場合によっては人間型アバターを上回る可能性さえあります」。
この手法は明らかに実験参加者に受けが良い。クレクホフらは、犬や猫からイルカやクジラなどの海洋動物まで幅広い例を挙げて、どのような種類の身体を試してみたいか実験参加者に質問した。圧倒的に人気を誇る答えがあった。「VRで体現する対象としてユーザーに最も魅力があるのは空飛ぶ生物でしょう」。
大きな応用の可能性を秘めた興味深い研究だ。最も明白な応用分野はゲームだろう。ゲームキャラクターの身体所有感の錯覚は明らかに魅力的だ。教育分野やトレーニング分野でも応用できるだろうし、アダルト分野で応用されることも間違いない。
もちろん、この種の錯覚が普及する前に克服すべき限界点がいくつかある。VRキットはますます一般的になってきているが、身体所有感テクノロジーは正確な身体追跡装置と連動する必要がある。それが実現には欠かせないだろう。より広範な課題としては、しばしばユーザーに吐き気を催させるVRの問題点を克服する必要がある。
とはいえ、バーチャルな身体の所有感がこれまでになく容易に実現でき、これまでの予想以上に幅広い種類の身体を使えるようになることは驚くべき事実だ。今後の研究成果に期待したい。
(参照:arxiv.org/abs/1907.05220:The Illusion of Animal Body Ownership and Its Potential for Virtual Reality Games:動物身体の所有感の錯覚とVRゲームへの応用可能性)
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