かつて人類が天然痘とポリオに打ち勝ったのは、生きたウイルスを用いたワクチンのおかげだった。合成生物学者は、毒性を弱めた新型コロナウイルスを使った生ワクチンを開発し、COVID-19に打ち勝とうとしている。
1950年代、アルバート・サビンはポリオワクチンの改良型を探索していた。サビンの研究室では、ワクチン探索の一環で、マウスやチンパンジー、サルの脳にポリオ(急性灰白髄炎)の原因となるポリオウイルスを感染させる実験が実施された。研究者は、病原体が変化するかどうか、そして弱毒化した病原体が出現するかどうかを見ようとしていたのだ。
最終的に研究者は、人に感染する能力は持ち合わせていながらも身体の麻痺を引き起こさない性質を持つポリオウイルスの単離に成功した。サビンのいわゆる弱毒化株は、有名な経口ポリオワクチンとなり、ワクチンを染み込ませた角砂糖の形で数十億人の子どもに投与された。
現代では、合成生物学によって、世界的に流行している新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のウイルスの弱毒化株を作成する道が切り開かれたと研究者は言う。ワクチン開発競争の舞台でこのアイデアが成功するまでの道のりはまだ遠いが、安価な点鼻薬に配合された弱毒化新型コロナウイルスが世界中で使用される可能性がある。
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新しいバージョンを開発したスタートアップ企業であるコーダジェニックス(Codagenix)は、プネーに拠点を置き世界最大のワクチンメーカーを自称するインドのシーラム・インスティチュート(Serum Institute)と提携している。合成によって設計された弱毒化新型コロナウイルスは、英国で実施されるヒトを対象とした安全性試験において、2020年11月に最初の志願者に投与される予定だ。
医薬品メーカーのアストラゼネカ(AstraZeneca)とモデルナ(Moderna Pharmaceuticals)のワクチン候補を含む、最も開発が進んでいる新型コロナウイルスワクチン候補は、体内で抗体を産生させるために、コロナウイルスの名称の由来であるウイルスの一部分、すなわち王冠型の「スパイク」だけを人に曝露させるものだ(ギリシャ語で王冠をコロナと言う)。
弱毒化された生の株を用いたワクチンの潜在的な利点は、身体がウイルスの全体と遭遇し、ウイルス全体に反応できる点だ。人は鼻を経由してウイルスを「キャッチ」し、さらにウイルスは鼻腔内で増殖もする。これにより、理論的には抗体だけでなくT細胞や鼻腔内の特殊な形態の免疫も形成され、より広範囲の保護作用につながる可能性がある。
新型コロナウイルスに故意に感染するのは怖いと思うかもしれない。だが、弱毒化ウイルスワクチンは広く使われている。子ども用のインフルエンザワクチン「フルミスト(FluMist)」には、弱毒化インフルエンザウイルスが含まれている。また、シーラム・インスティチュートは、生きた嚢虫(サナダムシの幼虫)を使ったワクチンを年間75万本販売している。地球上からの根絶に成功した唯一の病気である天然痘は、生きたウイルスの接種によって一掃された。
「免疫反応を完成させたいのなら、病気の進行を模倣する必要があります」。シーラム・インスティチュートのラジーブ・デレ部長は言う。「それができるのは生の弱毒化ワクチンだけです」。
かつては、ワクチンとして使用できる弱毒化株を見つけるのは骨の折れる作業だったと、コーダジェニックの顧問であり、初期のポリオ研究に携わったスタンリー・プロトキン博士は述べる。なぜなら、他の種の細胞内でウイルスを増殖させ、たまたま弱毒化株が出現するのを待つという方法で発見されていたからだ。その過程には10年かかることもあり、適切な振る舞いを示す株が全く見つからないこともある。
新たな合理的アプローチが登場したのは2002年のことだった。この年、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のウイルス学者であるエッカード・ウィマー特別栄誉教授は、遺伝的指令のみに基づいて感染性を持つポリオウイルスを作成したことでセンセーションを巻き起こした。「世界で初めて試験管で生命を創造」という見出しが新聞を飾り、バイオテロの脅威も取り沙汰された。
ウィマー特別栄誉教授の実証実験は無責任だと非難する声も上がった。しかし、データからウイルスを生成するテクノロジーは研究者を創造的にもする。なぜなら、研究者は生成の過程で望み通りにウイルスの遺伝子を書き換えることができるからだ。「ここで合成生物学、ゲノム編集の出番です。何年もかかっていた進化の過程を、日数で数えられる期間に短縮することができます」。イェール大学の生物学者ファレン・アイザックス准教授は言う。「残念なのは、このテクノロジーが活躍する機会を作ったのがパンデミック(世界的流行)であることです」。
ウィマー特別栄誉教授と、当時ウィマー研究室の研究員で現在はコーダジェニックスの最高経営責任者(CEO)を務めるJ・ロバート・コールマンは、2008年までに、危険な細菌を作る代わりに合成生物学を利用した「合成弱毒化ウイルス工学」、平たく言えば「無数に切り刻む処刑」と彼らが呼んでいた戦略を使って、弱毒化ポリオウイルスを設計する方法を論証し始めていた。
その仕組みを理解するには、遺伝子が3文字の暗号を使って作動することを知っておく必要がある。細胞内でタンパク質を作るときには、細胞は3文字の「コドン」を見て、構築中のタンパク質にどのアミノ酸を追加するかを決定する。しかし、遺伝暗号には冗長性があることが分かった。遺伝子のアルファベットで表現できるコドンは64個存在するが、作るアミノ酸は20個しかない。例えば、4つのコドンが同じアミノ酸であるセリンをコードしている。
進化がその冗長性に対処した方法も重要だ。すべての生物が同じ規則を使用するが、生物が細菌かヒトか、あるいはヒトデかによって、よく利用される特定のコドンやコドンのペアの傾向は異なる。
細胞を乗っ取って自身のタンパク質をコピーさせるウイルスは、予想どおり、人間の細胞に合わせて利用するコドンの傾向を進化させた。しかし実験室では、コーダジェニックスが「脱最適化」と呼ぶプロセスで、進化の選択を逆行させることができる。コールマンCEOによれば、コーダジェニックスは、遺伝子に240種類の突然変異を起こし、人間の細胞では使用効率が最悪なコドンを使うようになったバージョンの新型コロナウイルスを作成したという。
その結果、改変されたウイルスは、外見は元のウイルスと全く同じではあるものの、内部に「仮想ブレーキペダル」を持っているため、複製のスピードが格段に落ちる。新型コロナウイルスは通常、約1日で細胞内に自身のコピーを1億個作ることができるが、コールマンCEOによれば、脱最適化されたウイルスが実験室で自身をコピーする速度はその半分だという。人の体内では、脱最適化ウイルスの効率がさらに1000分の1にまで低下する可能性があるため、免疫システムが応答するための時間を稼ぐことができる。
新型コロナウイルス感染症との戦いにおいて生ワクチンが果たす役割が見えないという科学者もいる。「新型コロナウイルスのワクチン接種はもっと簡単にできます」。スクリプス研究所の専門家マイケル・ファーザン教授は話す。ファーザン教授によれば、新型コロナウイルスは、他のワクチンによっても産生できる抗体の格好の標的になるような方法で、自身の最も重要で脆弱性の高いスパイクタンパク質を体内で晒すという。「弱毒化ワクチンが必要なのは、それより安全なウイルスがない場合に限られます。弱毒化した新型コロナウイルスは不要なリスクをもたらします。生きたウイルスを人間の体内で増殖させる必要はありません」。
主に開発途上国でワクチンを販売しているシーラム・インスティチュートは、オックスフォード大学と米国のバイオテック企業ノババックス(Novavax)の最有力候補を含む4つの新型コロナウイルスワクチン候補の製造に取り組んでいる。これらのワクチン候補は臨床試験へ進んだ段階にあるが、うまく機能する保証はなく、供給不足になる可能性もある。
デレ部長は、シーラム・インスティチュートにとって生ワクチンは予備プランのようなものだという。生ワクチンは古くから確立されたテクノロジーに基づいて作られており、注射針を使わずに投与することができる。「経口ポリオワクチンが世界中で大成功を収めているのは、子どもの口に数滴たらすだけで済むからです。大じかけな医療器具は必要ありません」とデレ部長は述べる。「そのため、パンデミックの時には、最もシンプルなバージョンのワクチンが何十億回もの投与を実現できる可能性があると思いました。大規模投与になった場合、経鼻投与が最良のアプローチだと思います」。
弱毒化ウイルスにはどのようなリスクがあるのだろうか。ひとつは、弱毒化されているとはいえ、免疫システムが低下している人にとっては危険である可能性があること。もうひとつは、弱毒化ウイルスがより危険な形に「逆戻りする」可能性があることだ。「私たちは、ウイルスが元に戻る可能性があるのかという質問をいつも受けます」とコールマンCEOは言う。
逆戻り現象はポリオウイルスで起きている。ここ数十年は、野生ウイルスよりもワクチン株が原因となる流行のほうが多い。プロトキン博士によれば、サビンのワクチン株と野生のポリオウイルスを区別する突然変異が「比較的少数」に限られていたこと、また(人の体内で増殖し、人と人の間で伝播することさえある)弱毒化ウイルスは、変異して最終的に元の形に戻る可能性があることがその現象の原因だという。
これとは対照的に、「脱最適化」された新型コロナウイルスには数百個の遺伝子変異がある。たとえ変異の一部だけであっても、ウイルスが元の姿に戻る確率は数学的に極小だ。「それは不可能だと思います」とデレ部長は言う。
ワクチン株が危険な形に逆戻りすることよりも大きなリスクは、野生の新型コロナウイルスが、特定のワクチンの有効性を低下させるような方向へ変異することだと、デレ部長は話す。今のところ新型コロナウイルスはあまり大きく変異しておらず、実際非常に安定している。しかし、もしスパイクタンパク質が変異すれば、スパイクタンパク質の分子を標的としている現在の主なワクチン候補の有効性は低下する可能性がある。
弱毒化ウイルスによる生ワクチンは、ウイルスのすべての部位が含まれているため、こうした問題を回避できる可能性がある。「ウイルスが変異した場合に、ウイルスを追いかけるような真似はしたくありません」とデレ部長は言う。しかし、生ワクチンであれば、ウイルスが変異したとしても「まだ99%が類似したワクチンが私たちの手元に残るのです」。
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MIT Technology Review