グーグルのプログラマーは、娘が持つ遺伝性の難病の治療法を探し回っていた。ようやく出会った希望は、娘の遺伝子変異に特化した完全オーダーメイドな治療薬、すなわち「超個別化医薬品」だった。
アイペク・クズに初めて会っても、彼女が稀な遺伝性疾患にかかっているとは分からないだろう。3歳のアイペクは、おもちゃの自動車に乗ったり、自分で「ここが台所」だと決めた場所で「料理」したりしながら、楽しそうに1人で何時間も遊ぶ。しかし、アイペクは病気だ。足が少しふらついており、あまりしゃべらない。もし何もしなければ、20代半ばまでに死ぬかもしれない。アイペクの病気の名前は「毛細血管拡張性運動失調症(略称AT)」といい、DNAのエラーによって引き起こされる。ATにかかると脳細胞が減り、感染症やがんにかかる危険性が高まる。
ATは、医師が落胆して首を横に振る類の難病だ。しかし、アイペクの父親メフメット・クズと母親トゥグバは、アイペクがこの運命から逃れて欲しいと願っている。グーグルのプログラマーであるメフメットが根気強かったことも助けとなって、2020年1月にアイペクは、個人の遺伝子変異に合わせた「超個別化医薬品」の投与を受けられる最初の米国人患者のうちの1人になることができた。ボストン小児病院のティモシー・ユー医師がアイペクのために設計した超個別化医薬品は、病名ATとアイペク(Ipek)の名にちなんで「アティペクセン(Atipeksen)」と名付けられた。
ユー医師は、アティペクセンを作るために、遺伝子治療などの最近のバイオテクノロジーの成功例を参考にした。がん治療薬などの新薬の中には、患者の細胞内の遺伝情報を直接操作して病気を治療するものがある。現在、ユー医師のような医師たちは、これらの治療方法はコンピューター・プログラムのように変更できることを知っている。プログラムのコードを変更して治療薬のプログラムを変更すれば、アイペクの稀な遺伝性疾患を含めた多くの遺伝性疾患を治療できる可能性がある。
この新しい治療戦略は、理論的には、希少疾患(大多数は遺伝子のコピーミスによって引き起こされたもので治療法がない)にかかっている数百万人もの人々の助けになるだろう。米国の規制当局は2019年に、80以上の症例の要請に応じて個人や非常に小さな患者集団に遺伝子治療を許可し、今後はオーダーメイド治療を現在よりも容易に実施できるようにするための措置を講じる可能性があるとしている。クリスパー(CRISPR)を使ったカスタム遺伝子編集治療などの新しいテクノロジーの実用化は、すぐそこまで来ている。
アイオニスが医薬品を完成させるまでには何十年もかかったが、ユー医師の開発スピードは記録的だった。ミラセンを作り、動物実験を実施し、ミラセンをミラの脊髄に注射する認可を米国食品医薬品局(FDA)から得るまでに、たった8カ月しかかからなかったのだ。
「我々が希少疾患の患者を助ける立場になれるとは、考えたことすらありませんでした」と話すのは、バイオテクノロジー起業家のスタンリー・クルークだ。クルークはカリフォルニア州カールスバッドを拠点とするアイオニス・ファーマシューティカルズ(Ionis Pharmaceuticals)の創業者兼CEO(最高経営責任者)である。「現在は驚くべき瞬間なのです」。
ただし現時点では、保険会社はオーダーメイドの遺伝子治療薬には保険金を支払っておらず、そうした治療薬を製造している企業もない(計画中の企業はある)。これまでにオーダーメイドの遺伝子治療薬を使うことができた患者は数えるほどしかおらず、しかも通常は離れ業のような政治的圧力と資金調達によって実現されている。メフメット・クズのようなデータ・プライバシーに取り組んできたプログラマーが個人に合わせた遺伝子治療薬を最初に求めた1人だったのは、不思議なことではない。「コンピューター科学者だったからこそ、遺伝子治療薬を理解し、チャンスを手に入れることができたのです。遺伝情報はプログラムですから」と言うのは、慈善団体クリストファー・アンド・ダナ・リーブ財団(Christopher and Dana Reeve Foundation)のイーサン・パールスタイン最高科学責任者(CSO)だ。
アイペクの遺伝子治療薬の設計および製造費用のほとんどは、非営利団体「ATこどもプロジェクト」(A-T Children’s Project)が支払った。自らの息子2人がATと診断されたブラッド・マーガスによって1993年に創立された団体だ。マーガス代表にとって創立当初から現在に至るまでの変化はあまりに劇的なものだった。「私たちは非常に多くの資金を調達し、同時に研究に多くの資金提供をしましたが、生物学はどんどん複雑になるばかりで、とても悔しさを感じます。現在ようやく、問題を一番の大元の部分で修正できる可能性が目の前に現れたのです」。
メフメット・クズが娘アイペクの治療法を探し始めたのは、アイペクがまだ生後数カ月の時だった。遺伝学者の友人が、アイペクのATの状態に正確に適合した治療法についての論文を送ってくれたので、メフメットはカリフォルニア州サニーベールからロサンゼルスまで飛び、その論文の研究を背後で支えた研究者たちに会った。しかし、研究者たちが言うには、論文で提示されていた治療薬をヒトで試した者は誰もいないとのことだった。「この治療薬が実用化されるまでには、もっと多くの年月が必要です」と研究者たちは言った。
メフメットには何年も待つ余裕はなかった。メフメットがロサンゼルスに戻ると、マーガス代表は、ビデオの入ったUSBドライブをメフメットに手渡した。ビデオでは、ボストン小児病院の医師であるユー医師が、後に報道で「個別化ゲノム医療のすばらしい実例」と呼ばれることになる方法で、バッテン病(ATとは別の神経組織変性)の小さな女の子を治療する計画について語っていた。メフメットは、ユー医師が使っているのは、まさにロサンゼルスの研究者たちが夢物語と言って退けた遺伝子テクノロジーだとはっきり分かった。
このテクノロジーは「アンチセンス」と呼ばれる。細胞内で、DNAはタンパク質を作る情報をコードする。ただし、DNAとタンパク質の間には、細胞核から遺伝情報を運び出すRNAと呼ばれるメッセンジャー分子がある。アンチセンスとは、特定のRNAメッセージの1文字1文字にくっつく鏡像であり、RNAメッセージがタンパク質に変換されないようにブロックするものだと考えるとよい。この方法で、ある遺伝子のはたらきに加えて、時にはエラーを抑えることも可能だ。
最初のアンチセンス医薬品は20年前に現れたが、アンチセンス医薬品の概念が初めて大成功を収めたのは2016年のことだった。それは、アイオニスが製造するヌシネルセン(Nusinersen)という医薬品が、子供の脊髄性筋萎縮症の治療薬として承認されたときだ。脊髄性筋萎縮症は、治療しない限り2歳までに死に至る遺伝性疾患である。
遺伝子配列決定の専門家であるユー医師は、それまでにアンチセンスを使ったことはなかった。しかし、担当した若い患者ミラ・マコヴェクのバッテン病を引き起こした遺伝子のエラーを解読してみると、研究をそこで中断する必要がないことがはっきりした。遺伝子エラーが判明したのなら、遺伝子治療薬を作ればいいのでは?「ひらめいたのは全く突然のことでした」とユー医師は話す。「遺伝子配列を逆さにして使えばいいのではないでしょうか?これは非常に魅力的で、しかも単純な考えでしたので、私たちの頭から離れなくなりました」。
ユー医師は、自身がこのアイデアをミラの母親ジュリア・ヴィタレッロに勧めたのは大胆なことだったと認めている。しかし、ユー医師は薬の開発をゼロから始めたわけではない。モジュール式のバイオテクノロジー医薬品とはどのようなものかを示したデモンストレーションの中で、ユー医師はアイオニスの医薬品の化学的な骨格(重合体やポリペプチドの主鎖)に基づきながら、ミラ独自の遺伝子変異をターゲットにしたミラのための薬「ミラセン(Milasen )」の開発を進めた。アイオニスが医薬品を完成させるまでには何十年もかかったが、ユー医師の開発スピードは記録的だった。ミラセンを作り、動物実験を実施し、ミラセンをミラの脊髄に注射する認可を米国食品医薬品局(FDA)から得るまでに、たった8カ月しかかからなかったのだ。
「現在は何が違うのかといえば、ティモシー・ユー医師のような事前にアンチセンスというテクノロジーをまったく知らなかったような人でも、医薬品を開発できることです」。マサチューセッツ州ケンブリッジを拠点とするチェックメート・ファーマシューティカルズ(Checkmate Pharmaceuticals)のアート・クリーグCSOはこう話す。
ミラセンについての噂が広がると、話を聞いた100以上の家族がユー医師は助けを求めてきた。ユー医師は辛い立場に置かれた。ユー医師はアンチセンスを異なる病気を持つ10人程度の子どもに試す計画だったが、この治療法が全員に合うわけではないと知っている。アンチセンス医薬品がもっとも適した病気はどれかを今も確認中だ。ただし、開発の道のりは困難であり大きな費用がかかるものだ。新しいバージョンのアンチセンス医薬品を作るたびに、毎回薬の効き目が異なり、動物を使った高価な安全性試験が必要となる。
メフメットにとって有利だったのは、ロサンゼルスの研究者たちがアンチセンス医薬品に効果がありそうなことを既に証明してくれていたことだ。さらに、マーガス代表がATこどもプロジェクトから研究資金を出すことに同意してくれたことも大きい。しかし、もしATこどもプロジェクトから資金が出るのであれば、アイペクだけを治療するのでは不公平になる。そこで、マーガス代表とユー医師は、アイペクを含む3人の小さな患者たちの細胞を使ってアンチセンス医薬品の試験を実施することに決めた。どの子の細胞であれ、最もよい反応を示した細胞を選ぶことになった。
メフメットは、試験の結果を待つ間、友人やグーグルの同僚たちから約20万ドルの資金を調達した。ある日、病気の子どものために資金を集めているというグーグルの別の従業員から、メフメットの受信箱にメールが届いた。メールを読み進めるにつれ、メフメットは衝撃を覚えた。同僚のジェニファー・セスの娘も、医師であるユー医師にかかっているというのだ。
セスの娘リディアは、2018年12月に生まれた。ふっくらとした頬が可愛らしいこの幼児の遺伝子には突然変異があり、それにより脳卒中の発作が起こり、重い障害につながる可能性がある。セスの夫ローハンは、シリコンバレーとつながりの強い起業家であるが、ローハンは娘の問題を「ソースコード」の「ランダムで小さな突然変異」と読んでいる。セス夫妻は200万ドル以上の資金を集めたが、その多くは同僚たちからのものだ。
この時点で、ユー医師にはメフメットに伝えるべき良いニュースが届いていた。なんとアイペクの細胞の反応が一番良かったのだ。このためクズ一家は、アイペクがアティペクセンでの治療を始められるように、2019年9月にカリフォルニアからマサチューセッツ州ケンブリッジに引っ越してきた。2020年1月、よちよち歩きのアイペクは、全身麻酔での腰椎穿刺により、脊椎の内部に最初の投与を受けた。
クズ夫妻は、手術から1年後にはこの薬が効いているのかどうか知りたいと考えている。医師たちはアイペクの脳容積を観察し、アイペクの脳脊髄液内のバイオマーカーを計測することで、病気の進行具合を読み取る。さらに、ジョンズ・ホプキンス大学病院のチームの協力により、アイペクの体の動きを他の子どもたち(ATの子どもとそうでない子どもの両方)と比較し、ATの症状の進行が予想より遅れているかどうかを見る。
個別化された遺伝子治療薬の大きな課題は、奇跡的な回復がない限りは、遺伝子治療薬に本当に効果があると最終的に言えないことだ。ATのような病気は進行速度が人によって大きく異なるからだ。ある薬が有効だと証明するにせよ、役に立たないことを示すにせよ、ほとんど必ず必要なのは、1人の患者ではなく多くの患者のデータを集めることだ。「どんなに高額でも支払い、どんな治療法でも試す親にとっては、実験的な治療法には効果がないことがしばしばあると正しく認識することが重要です」と言うのは、ペンシルベニア大学の法律学者であり倫理学者であるホリー・フェルナンデス・リンチ助教授だ。「リスクはいくつもあります。あるリスクを冒すということは、他の選択肢を選ばないことになり、死を早める可能性すらあります」。
クズ一家は、色々な治療法とそのリスクおよびメリットを比較検討したと言う。「このような種類の治療薬は初めてですから、私たちは多少怖くもあります」とメフメットは言う。しかし、彼は次のように続けた。「他に選ぶべき方法はありません。これが私たちや他の家族に希望を与えてくれる唯一の方法です」。
超個別化医薬品には、費用が保険で支払われないという障害もある。このため、製薬企業は超個別化医薬品の開発に関心を示していない。製薬企業は何千回も売れる薬を優先するが、一般に知られている限りでは、アイペクと全く同じ突然変異を持つ人は見つかっていない。このせいで、家族はとてつもなく経済的負担を負うことになるので、裕福であるか、運が良いか、有力者と縁の深い人でなければ負担できない。アイペクの薬の開発には、すでに190万ドルはかかっているだろうとマーガス代表は推測する。
研究者の中には、米国立衛生研究所のような機関が研究資金を負担すべきであると考えている人もいる。彼らは、4月に開催されるメリーランド州ベセスダ(米国立衛生研究所の所在地)での会議に参加し、自分たちの事例を認めてくれるよう主張する予定だ。ユー医師のような医師たちの研究を加速するガイドラインを策定している米国食品医薬品局(FDA)からも支援が得られるかもしれない。FDAは、ミラや他の患者たちに深刻な副作用が起きた場合には、最新情報の報告を受け取ることになっている。
またFDAは、都度改めて許可を取る必要なしに、新たな患者のために遺伝子治療薬に変更を加える裁量の余地を医師に与えることを検討している。FDAの生物製品評価研究センター(Center for Biologics Evaluation and Research)のピーター・マークス所長は、従来の製薬企業を全く同じTシャツを大量生産する工場に例えている。しかし、マークス所長は、現在のアパレル企業では、会社のロゴの刺繍がついたベーシックなTシャツを個別に注文できる点を指摘している。このため医薬品の製造においても、もっと個別化していくことができると、マークス所長は確信している。
個別化医薬品には、病気の子どもの体が必要とするメッセージそのものが含まれているのであろうか? もしそれが達成されているならば、それは新たなタイプの遺伝子治療薬を開発したアイオニスなどの企業の功績だろう。しかし同時に、自分たちの子どもを救おうとしているクズ夫婦や、ブラッド・マーガス、ローハン・セス、ジュリア・ヴィタレッロほか多くの親たちの功績でもある。彼らは子どもの治療のために、超個別化医薬品を現実のものにしているのだ。
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エリカ・チェック・ヘイデンはカリフォルニア大学サンタクルーズ校のサイエンス・コミュニケーション・プログラム部長
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