心臓や肝臓などの生死に関わる臓器の移植では、依然として人体に頼らなければならない。臓器不足の解消へ向け、遺伝子編集ブタを使った異種移植の実現という夢を追う、ドイツの研究者を訪ねた。
ドイツのミュンヘン市内中心部から37キロメートルほど北に進んだ位置に、かつて国営農場だった施設が、今もなお当時の風情を残したまま存在する。市内中心部とミュンヘン国際空港の中間にあるその施設の、古いファームハウスの窓を覗くと、室内には最先端の実験装置が所狭しと並んでいる。
農場の奥にある、ファームハウスより新しい建物の中で、獣医のバーバラ・ケスラー博士は履いていたスニーカーを脱ぎ、素足と素手に殺菌剤をスプレーする。細く引き締まった体型のケスラー博士は、外部から持ち込んだ服、時計、イヤリングなどをできる限り取り外してから、シャワールームの床に貼られたテープをまたぐ。そして、体と髪を洗う。頻繁な洗浄が楽にできるよう、髪型は坊主に近いバズカットにしてある。
シャワーを終えたケスラー博士は、綺麗に折り重ねられた支給ウェアの中から、自分のサイズの黒いズボン、赤いシャツ、黒いクロックスサンダルを選び出す。更衣室から出ると、超がつくほどのショートヘアにも関わらず、髪の毛が細菌を撒き散らさないように黒のニットキャップを被る。そして、廊下を大股で歩いてブーツ部屋へ進み、1回の使用ごとに徹底的に洗浄される膝上タイプのゴム長靴に慎重に足を入れる。
このような衛生措置はすべて、清潔さとは縁遠い動物だと思われているブタを守るためだ。ケスラー博士が屋内に設置された豚舎の扉を開けると、そこでは紛れもない養豚場の臭いが漂っている。
ケスラー博士はケージの扉を1つ開け、中にいるブタを見せてくれた。雌の子ブタが出てきて、あたりを探索し始める。この施設にいるブタには名前がない。ブタの世話係が愛着を持ちすぎないようにするためだ。名無しの子ブタは、金属製の扉の向こう側に戻るよう誘導される。素人目には、この子ブタは普通のブタと変わりないように見えるが、体は小さい。
重要なのは、雌ブタの体内だ。この雌ブタの臓器は、人体に移植されたときに受け入れられる可能性が高くなるよう4つの遺伝子操作が行われている。遺伝子操作のせいか、メス豚の見た目は、ややブタらしさを失っている。すべてが計画通りに進んだ場合、この雌ブタのようなブタの体内でせっせと血液を送り出している心臓が、いつか人間の体内で拍動するようになるかもしれない。
遺伝子改変ブタに由来するさまざまな種類の組織の移植は、すでに人体でテストされている。中国の研究者たちは、インスリンを分泌する膵臓の細胞を遺伝子編集ブタから取り出し、人間の糖尿病患者に移植した。韓国の研究チームは、ブタの角膜を人間に移植する準備が整っており、政府の承認待ちだと発表している。そして、米マサチューセッツ総合病院では、重度の火傷を負った患者の傷口を一時的に覆うために、遺伝子編集されたブタの皮膚が使用されたことが、2019年10月に発表された。発表した研究者によると、使用されたブタの皮膚は、入手がはるかに難しい人間の皮膚と同じくらい効果的に機能したという。
しかし、心臓や肝臓などの生死に関わる臓器に関しては、移植外科医は依然として人体に頼らなければならない。いつの日か、この雌ブタのような遺伝子編集ブタの体にメスを入れて取り出した心臓、腎臓、肺、肝臓を移植センターへ救急搬送し、死に瀕する重病患者を救うのが夢だ。
ベイビー・フェイの死
米国では現在、臓器提供者(ドナー)が見つからないために、毎年7300人が死亡している。そのうちの3分の2は腎臓移植希望者だ。多くの場合、唯一の希望は他の誰かの悲劇、つまりドナーを生み出す死亡事故である。
別の臓器供給源を探し求める外科医はまず、人間に最も近い動物であるサルに注目した。1984年、ベイビー・フェイという名の生まれたばかりの女児にヒヒの心臓が移植されたが、免疫が拒絶反応を起こし、20日後に死亡した。生まれて間もないベイビー・フェイの早すぎる死は世界中から注目を浴びた。多くの人が、最も近縁の動物を殺して人間を救うという考えを非難した。ワシントンポスト紙に掲載された心臓専門医による意見記事では、ヒヒの心臓移植手術は「医学的冒険主義」と表現された。医療倫理ジャーナル誌(JME)では、「ベイビー・フェイ:けだものビジネス」という見出しの記事が発表された。
その後、1990年代に、研究者とバイオテクノロジー企業は、最適ドナーとしてブタを選んだ。豚肉は食されているので(米国だけで年間1億2000万頭)、多くの人にとってブタの臓器を採取することは道徳的にそれほど問題ではないだろうと考えられたのだ。科学的には、ブタの臓器は人間の臓器とほぼ同じ大きさで、解剖学的に類似している。さらに、ブタはおよそ6カ月で成体になり、霊長類よりもかなり成長が早い。しかし、ブタは人間に感染する恐れのあるウイルスを保有しているという問題が浮上した。さらに、当時利用可能だった単純な遺伝子工学では、サルに移植したブタの臓器は長持ちしなかった。ブタとサルは、遺伝学的にはあまりにもかけ離れていたのだ。
それから20年以上が経ち、遺伝子工学の進歩によって、いわゆる異種移植への期待が復活した。異種移植分野で最も白熱する議論は、種の壁を克服するために、正確にはいくつの遺伝子編集をブタに行う必要があるのか? という問いだ。潤沢な資金を持つ米国企業のイー・ジェネシス(eGenesis)は、「多ければ多いほど良い」の立場をリードし、中国の姉妹企業で育てたブタに「2桁」の変更を加えたと発表している。
ミュンヘンの養豚施設のドイツ人研究者は、遺伝子編集の数は「少ない方が良い」という立場である。研究中のブタに行なった重要な遺伝子改変は3つであり、初めてその遺伝子改変が行われたのは10年以上も前だ。いずれも、ヒヒと人間がブタ由来の臓器に拒絶反応を起こさないようにするための遺伝子改変である。1番目の改変では、糖を生成するガラクトシルトランスフェラーゼという酵素の遺伝子をノックアウトすることで、臓器移植を受ける者(レシピエント)の免疫系が異種由来の臓器に急性拒絶反応を起こすのを防ぐ。2番目の改変では、ヒトCD46を発現する遺伝子が追加された。ヒトCD46は、免疫システムが過剰反応して自己免疫疾患を引き起こすことなく、侵入した異物を攻撃するのに役立つタンパク質だ。3番目の改変では、トロンボモジュリンと呼ばれるタンパク質の遺伝子が導入された。トロンボモジュリンは血液凝固を防ぎ、移植された臓器の破壊を防ぐ。
ミュンヘン郊外にある元国営農場で、革新的医療モデルセンター(Center for Innovative Medical Models)を運営するエッカート・ヴォルフ教授は、遺伝子編集は少ない方がより適切に制御・測定することができ、その影響を実証しやすくなると主張する。異種移植では頻繁に問題が発生するが、遺伝子編集が少なければ原因を特定しやすい。遺伝子編集の数が増えると、潜在的な問題も増える。「そのうち、追加する遺伝子改変が何をするのか分からない状況に陥ります」とヴォルフ教授は語る。
心臓の大きさ
2018年、ミュンヘンの革新的医療モデルセンターで育てられたブタの心臓が、14匹のヒヒに移植された。そのうち2匹は6カ月間生き延びた。6カ月という期間は、あらゆる動物の心臓異種移植における最長記録だ。2018年12月のネイチャー誌で発表されたレポートで、革新的医療モデルセンターの研究者はこの成果を「臨床での心臓異種移植へ向けた大きな一歩」と表現した。
最初にブタの心臓を移植した5匹のヒヒのうちの4匹は、移植後1、2日以内に死亡した。5匹目が1カ月後に死亡したとき、心臓は病変していた。次の実験対象となったヒヒのグループには、ヴォルフ教授の共同研究者であるブルーノ・ライヒャート教授(元心臓移植外科医)が、ブタから採取した心臓がヒヒの体内で完全に機能するまで、移植した心臓に栄養素やホルモン、赤血球を大量に与え続けた。このアプローチで心臓移植を受けた3匹のヒヒはそれぞれ、18日間、27日間、および40日間生き延びた。
最後の実験対象となった5匹のヒヒには、同じアプローチで移植手術を施すと共に、免疫抑制薬を投与し続けた。そのうち2匹はそれぞれ、182日間と195日間生存したが、免疫抑制療法の継続は非常に困難だったため、健康状態が良好であったにも関わらず、昨年安楽死させなければならなかった。ヒヒに6カ月以上点滴を続けるのは現実的ではない。ヒヒに薬を飲ませるのも簡単なことではない。ヒヒは小さな子どものように、薬の匂いがするものを飲むのを拒むのだ。
ライヒャート教授は、少なくとも1年間はヒヒに免疫抑制剤を投与し続けることができるよう、投薬システムの改良に取り組んでいると語る。ライヒャート教授によると、この1年間という期間は、異種移植を人間でテストする準備が整ったことを証明するために必要とされる期間だという。
しかし、ヒヒ研究の半ばで、ヴォルフ教授とライヒャート教授は予期せぬ問題にぶつかった。心臓は、ヒヒの小さな体に合うように子ブタから採取されたが、移植された心臓は、270キログラムのブタを生かすのが務めであるかのように成長し続けたのだ。移植された心臓の重さは、典型的なヒヒの心臓よりも62%重かった。論文では、「巨大な心臓の過成長」と表現されている。ヒヒに移植された心臓は他の重要な臓器を押しのけ、いくつかの症例では、ヒヒは死亡した。
ケスラー博士は豚舎で、心臓の過成長問題に対するヴォルフ教授の解決策を見せてくれた。クリスパー(CRISPR)による遺伝子編集を施して生み出された2頭のブタの姉妹だ。ヴォルフ教授たちは、ブタの成長ホルモン受容体(GHR)遺伝子を不活性化することで、体重を典型的なブタの約半分に抑えた。通常の雌ブタの体重は180キログラムあるのに対して、このブタの姉妹は共に体重が約79キログラムしかない。妊娠中の1頭は、廊下の反対側のケージの中で独り、壁のほうを向いて立っていた。生まれてくる赤ちゃんブタを守るための予防措置として、横たわることができないように金属棒で囲まれていた。この雌ブタは普通の大きさの雄ブタと交配されたが、子孫のおよそ半数はGHR遺伝子が欠損した状態で生まれるはずだ。
1人の命を救うコスト
ブタから人間への移植に関する世界的な規定を設けることになる米国食品医薬局(FDA)やその他の機関が要求する基準を満たすように遺伝子編集ブタを生み出し、飼育するには、多額の費用がかかる。毎週月曜日と火曜日には、ケスラー博士は同僚とともに、地元の食肉処理場で集められたブタの卵子に目的の遺伝物質を導入し、ブタのクローン胚を作る。病原菌を最小限に抑えるために、新たな株のクローンを作製するときは必ず、実験室の培養皿で受精させ、帝王切開で分娩し、出生時に母親から引き離すという手順を踏む必要がある。後世代の無菌ブタはそれほど多くの衛生措置を必要としないので、ベーコンや豚肉を目的とした養豚費用の10倍ほどしかかからないと、ケスラー博士は説明する。
ミュンヘンの養豚場には、遺伝子編集された約120頭の成豚と約150頭の子豚がいる。この類の養豚場は世界に数える程しかないにも関わらず、ミュンヘンの養豚場でさえ、臓器を人に移植するのに必要な基準を満たすようにブタを育てる金銭的余裕がない。ヴォルフ教授が政府から受けている補助金では、養豚施設のすべての部屋の空気洗浄や、トラックで運ばれてくる特別な植物性ペレット飼料の照射に用いるHEPAフィルターの費用は賄えない。野生のイノシシとその病原菌を遠ざける目的で施設をフェンスで囲む費用を調達するために、研究者は何年も働きかける必要があった。
ライヒャート教授は、ブタ心臓の移植を人間でテストする準備を整えるためには、あと1件の試験を完了するための資金を調達し、ブタ心臓を移植したヒヒを1年間生かし続ける必要があると説明する。他の研究グループの研究も追いついてきている。米フロリダ州のマイアミ大学に移ったばかりの移植外科医であるジョーセフ・テクター博士は、必要なのは、ヴォルフ教授が運営するような養豚設備を完備した施設を建設する時間だけだと語る。施設さえできれば、ブタの腎臓を人間に移植するテストの準備が整うという。米国アラバマ大学バーミンガム校には、臨床移植を支援するための養豚施設があり、心臓と腎臓の両方を研究する専門家が在籍している。アラバマ大学での最初の異種移植の臨床試験は、先天性の心臓奇形で生まれた赤ちゃんかもしれない。ブタの心臓は、ベイビー・フェイに期待されていたように、人間の心臓を受け取るまでの橋渡しの役割を果たせるだろう。
ライヒャート教授は、異種移植を初めて成功させた人物になる必要はないと語る。しかし、研究の成功に至るまであとわずかなので、自分が初の成功者になる可能性が高いと考えている。数十年の研究の結果、外科医に種の壁を打ち破らせることができるのは、ミュンヘンの研究所のブタなのかもしれない。
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